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↓以下、文章部分

2枚の阿弥陀図と作品について 

私が古典絵画に興味を持ったのは大学院に入学したてのころ、鎌倉時代に描かれた仏画「山越阿弥陀図」(下図1)を初めて図録で見た時です。その時に感じた奇妙な感覚は今でも忘れられません。山の端から金色に塗り込められた仏がぬっと半身を現している奇妙な設定、しかもその仏の衣には遠くから見たら判別できないほどの、無数の截金文様が施されているという手の込んだ技法。それでいて仏の様子はどこか楽しげで愛らしく、自分の感覚にすっと入りこんでくるような親近感を覚えました。それまで絵を描く上で私が必要条件だと思っていたこと(遠近法や構図、部分と全体との関係性など)を全く裏切るような「絵」に激しく戸惑い、強く興味を感じました。なぜこのような画面が絵画として成立しているのか、なぜこのように描く必要があったのか、私が藝大大学院に在籍していた5年間は朝から晩まで絵筆を持って仏教絵画の模写をしながら、そのことを考え続ける日々でした。

一方で不思議なことに、古い時代の作品を学ぶほど、自分自身の絵画制作はだんだん自由になっていく感覚がありました。ひとつには日本画で扱う素材や技術に対しての理解を得られたこと、もうひとつはそれまで自分が絵画の必要条件だと思っていた規律が覆されたことによると思います。考えてみれば私が学んできた絵画の規律というのは西洋美術が確立してきたそれであって、日本の古典美術を見たときに、まだはっきりと説明されていないが確かにそこにある別の法則性のようなものを感じました。「山越阿弥陀図」の模写研究を終えたあと、博士課程では「阿弥陀聖衆来迎図」(国宝、高野山有志八幡講十八箇院所蔵)を続けて研究しました。その中で両者に共通していたのは見る人に、まるで自分に向かって仏が迎えに来たかのような感覚を与えるために計算して描かれているということで、私が最初に感じた奇妙さの原因のひとつもそこにあったと思い至りました。それは絵が四角い画面枠の中だけで成立しているのではなく、鑑賞する側の空間につながっている、また技術もそう感じさせるために選ばれているということです。私はいつしかそういった感覚を自分の絵でも体現したいと思うようになりました。またその感覚を言葉ではっきりと説明したいという欲求もあるのですが、なかなかそこまで至りません。そのようなモヤモヤを抱えつつ、大学院での5年間の研究のあと、「空のきわ、地平のあいだ」(下図2)という作品と、今回展示されている「けはいのあと」という作品を描きました。前者は自分がそれまで絵を描く時に無意識に基準としていた水平、垂直をもとにした空間構造をばらばらにして組み直すこと、後者は絵の「奥行き」を充満する空気のように捉えて表現することを目指しました。

こうして述べてみると自分はとても主観的かつ近視眼的に、古典作品を見ていると思います。いくら歴史のあるものと言っても、良く理解できないものもたくさんあります。その感覚は、現代の作品を見る時と同じです。

 

覚の会−現代作家によるそれぞれの古典− 展示パネル